マッスルハウス8に学ぶ、クリエイター思春期との付き合い方

 マッスルという自分が愛するプロレス団体というか表現手段があり、その興行が5月4日に行われ大体こんな感じだったんだが、そのエンディングがあんまりにもあんまりというかこれを書いてしまうと普通に見てない人が見たくなくなる感じなので具体的には書かないまでも、すさまじいまでの末期感というか、端的に言って間違っていた。とぼくは思う。

 最近、思春期、という事象について考えたことがあって、思春期とはある種の病気であると思う。そしてその症状は、自分や何かに対して過度に夢を抱いたりあるいは逆に過度に絶望してしまうことだ。大抵の人は人生のどこかしらでその病気が治るんだけど、治らない人は一生治らない。発症しなくても潜伏してる。そういう人は実際にいるものだけど、たまにクリエイターとしての職業病として思春期を発症してしまう人がいて、そういうクリエイター思春期の人っていうのは確かにいるのだ。クリエイターっていう言葉の後に、(笑)を付けるかどうかは別として。

 たぶんマッスル坂井はそういう人なんだと思う。で、別にそれ自体はそんなに悪いことではないんだが、ただ彼のやっていることや今までに出来ていたことっていうのがわりと自分のやってるジャンルを否定する作品作りだったりするので、そうしたときにクリエイター思春期というのは命にかかわる病になり得る。要は今、あらゆるギャグマンガ家が崩壊していくのと同じような意味合いで、マッスル坂井は崩壊しかけているんだと思う。

 それはでも、決して良いことではない。なぜならマッスル坂井は面白いものを作る能力があるからだ。クリエイター思春期を治療することはたぶんできないんだと思うがしかし、その病気とうまく付き合うことはできるんだと思う。その付き合い方を考えるのは決して他人事ではないなと自分では思ったので、人はクリエイター思春期とどう向き合いどう付き合っていけばいいのか、その自分なりの答えをここに記す。なおクリエイター思春期というのはひと言で言って、自分がものを作ることに対して過度に夢を抱いたりあるいは逆に過度に絶望してしまう病気、という意味合いです。


(1)優先順位を間違わない

 ものを作る上では色々な制約があって、時間、お金、自分の能力、周囲の期待、とか大体そんな条件の上でものを作っていくわけだが、そこには確実に正しい優先順位が存在している。いちばん優先されるべきなのは何か。それはもう、確実に、時間だ。納期は守らなければいけない。というかそれが前提である。納期を破ることが作品としてアリなものになっていないのであれば(例えばギャグとして、締め切り守れませんでした、みたいなのが成立するならそれはそれでアリだが)、その時点で人前に出す作品としては成立していないんだと思う。

 クリエイター思春期の人間は結構そこについて考えないもしくは考えすぎるフシがあって、時間的に面白いものを作れないならそれを人前に出すべきじゃないとかそんなことにもなってしまいがちだが、じゃあやんな、って話である。富樫先生のようにそれを生き方としてネタにしてしまうという手法もなくはないが、それは本人の納期を守らないという生き方自体が作品になっているから許されるわけであって、どう考えても特例中の特例にすぎない。納期を守らない作り手が言うことには何の説得力もないので、そこはもう前提なんだと考えなくてはいけないんじゃないか。


(2)自分が面白いと思うこと、に対する答えなんてない

 自分が面白いと思うことをやればいいとか、自分のやりたいことをやればいいとか、そういう意見が周りから出るのは多々あることだし、実際今回のマッスルハウスのエンディングでも観客のあたたかい拍手によりそんな流れにはなってはいるが、でもそれはマッスル坂井にとっての正解ではない。あんなもんは、興行それ自体をいい感じに終わらせようという観客の空気読み以外の何者でもなくて、自分が面白いと思うこと、なんていう問題に対しての答えなんて何もない、ということが実は問題なのだ。

 そこを考えすぎるからこそクリエイター思春期が発症する。この後書くことにも繋がるが、我々は全員アントニオ猪木根本敬のような、やりたいことや自分が面白いと思うことが明確にある人、ではないということを認識しなくてはならない。正解か不正解かは常に結果でしか判定し得ない。やってみて面白かったらそれが正解だし、やってみて面白くなかったらそれは不正解なのだし、自分とか、すべきこととか、そんなものは後から誰かが決めることだったりするのだ多分。


(3)お題は正しく設定しなくてはいけない

 これが一番重要なところで、ものを作るというのは大喜利のようなものであって、お題に対してどう答えを出すかってことだから、実はそこで一番大切なのは、お題を正しく設定するということである。例えば、誰に向かってものを作るのか、ってことだ。もちろん自分じゃない。自分が満足できるものを作れば良いって本心から言える人ならクリエイター思春期にはかからない。じゃあマッスル坂井は誰に向けてマッスルを作るのか。客か。実はそうじゃない。マッスルが何であんなに面白かったか、特にマッスルハウス4以前のマッスルがあれだけ面白かったのかと言うと、マッスルのファンじゃないところに向けてあの作品を作っていたから、あれだけすごいものが作れたんだとぼくは思う(というかあの時点でたぶん、マッスルのファン、って明確な対象はなかったはずだ)。

 当時のマッスルが対象としていた仮想敵は、マッスル坂井が意識していたかどうかは別として、普段プロレスを見ない普通の人々、あるいはプロレスにどっぷりハマっている安いプヲタだったんだと思う。当時のマッスルへのお題は、その仮想敵に対して、プロレスってこんな面白いジャンルなんだとか、プロレスってお前らが思ってるよりすごいジャンルなんだ、ってことを強引に主張するってお題だったからこそマッスルは面白かった。でもマッスルハウス4の成功体験によりそのお題が微妙に、でもその微妙なところが本質なんだけど、微妙にずれた。だからあれ以降のマッスル、特にマッスル坂井自主興行以降のマッスルはお題を見失ってしまい、故にマッスル坂井はクリエイター思春期を発症し続けてるんだと思う。

 マッスル坂井という才能は明らかに、お題に対して面白い答えを出す、あるいはお題に対してそんな答えやそんな答え方があったんだ、という驚きを見せつける才能である。アントニオ猪木ターザン山本だったら、お題なんて関係ねえんです、って本心から言えると思うんだけど、本質として多分そうじゃない。というかだったらクリエイター思春期になんてなってないはずだ。マッスル牧場が面白かったのは、テレビで面白いプロレスをやる、みたいなお題がしっかりしてたからこそであって、実は一番重要なのは、お題をちゃんと正しく設定するところなんだと思う。

 そのとき初めて、クリエイター思春期は自分の武器になる。お題が設定できて初めて、悩むんじゃなく、考えることができるようになる。自分が面白いと思うこと、がハナっからないんであれば、無理矢理にでもお題を設定しないと時間の無駄なんじゃないかという話です。お題を設定することが何より重要なので、そのお題を設定することができるんであれば、あとは頑張れば良いんじゃないの、って話だったりするわけです。


 以下、まとめ。マッスルが続くのかどうか、続いたほうが良いのかどうかはぼくには分からないが、マッスル坂井という希有の才能はやはり惜しすぎると自分は思う。本音を言うと、マッスル坂井がプロレスラーとしてリングに上がらないって状況が続くんであればあんまり続ける意味合いはないんじゃないかとも正直思うがしかし、惜しい、というただそのひと言に尽きる。だって自分が愛したものが、いま終わるかもしれないんだもの。そこから先は、たぶん言葉になんてできない。