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 かつて週刊ファイトの井上編集長は「プロレスとは何か?」という問いに対して「プロレスとは、底が丸見えの底なし沼である」と信じられないほど完璧な一言で表現した。これは単に美しいだけのレトリックなどではなく、実際にそうなのだ。プロレスの観客は、事前にそこで何が行なわれるのかを知っている。誰が勝つか誰が負けるのかなどを見にいくのではない。観客が見に行くのは純粋に、プロレスそのものなのである。だからそこでプロレスが行なわれさえすればそれはすでにプロレスという体験であり、試合が行なわれるずっと前から(あるいは試合なんて行なわれる必要さえないのかもしれない!)、底なんて丸見えなのだ。

 しかし底が丸見えだからといって、その沼に底があるとは限らない。プロレスとはまさにそういったものであって、プロレスに携わるレスラーらスタッフそして観客たちは、「一体なぜそこでプロレスが行なわれているのか」について一切分かっていない。どんな理由で目の前の半裸の男たちが殴り合っているのか、なぜ相手がポストに上ったらコーナーにふらふらと寄っていくのか、そんな答えは初めから用意されておらず、だからそれは底なし沼なのだ。自分が何故ここにいるのか? 誰もが分かっていない。要は馬鹿ものどもの集まりというわけであり、立地点が存在しないのだからどこまで沈んでも底などなく、だからいつだってそこに奇跡がある。

 前置きが長くなったが、これはハロプロだってそうだし、芸人の世界だってそうだ。プロレスとハロプロと芸人、これら全ては「底が丸見えの底なし沼」である。プロレスは、ハロプロは、芸人は、いつだってはみ出す。「お前がやりたいことは分かるが、その欲望に対してその行動は明らかに合っていないのではないか!」という馬鹿馬鹿しさや愛らしさ、それはつまり不完全な存在としての人間全体に対する愛と言ってもいいだろう。だがもちろん全てが底なし沼であるわけではなく、プロレスで言えば今現在の新日は、ハロプロで言えば松浦さんなどは、おそらく底なし沼ではない。それはもう一つの完成されたものであり、もはや沼ですらないのかもしれない。

 前置きが長くなったが今日したいのは芸人の話だ。だったら芸人の世界で「底が丸見えの底なし沼」とは一体誰なのかという話で、例えばケンドーコバヤシさんがそうだ。そしてバッファロー吾郎の木村さんがそうだ。だがしかしいま最も「底が丸見えの底なし沼」に近い存在だと言えるのは、レイザーラモンRGこと出渕さんであって間違いない。というわけで今週土曜日にヨシモト無限大(ファンダンゴ)で語った出渕さんの言葉についていくつか。

 体にダメージがないとやった気がしない

(シルバーウルフに関して)まずおジャーマンを広めてからの仕事やな

 しィ!

 書いてて分かったのは、出渕さんの言葉なんか書き起こしたって、出渕さんの美しさや愛らしさをまるで伝えることは出来ないということだ。だがそれが美しい。シルバーウルフ(例えば「味噌煮込みうどん」を表現するとき、「味噌……味噌……味噌煮込みうどんーっ!」と叫ぶというギャグというか表現形態)なんてもう何が素晴らしいんだが自分でもわけがわからないのだが、だからこそ出渕さんが好きでたまらない。これは同情とかではなく、全然余裕で愛なんだと思う。

 参照リンク
http://boomboom.cocolog-nifty.com/blog/2006/02/post_4c6a.html
http://d.hatena.ne.jp/noriko21/20060205/1139081965

 ネプチューンに憧れていたという話は非常に興味深い。興味深いし「なるほど!」という感もある。印象としてネプチューンは過小評価されすぎなのではないかという気がしていて、もしも彼らがもっとお洒落ではなく、大阪で生まれて暮らしていたとしたら、それはリットン調査団なのではないかと思うんだがどうだろう?