声と文字

 ぼんやりと考えたことではあるが、それでも例えば小説などで「地の文」と「会話文」は同じ文字として表記されるものだ。しかし本質的にこの二つは違うものなんじゃないのかという気がしていて、例を挙げれば「会話文」での言い間違いやどもりというものは可能だが、「地の文」での言い間違いはあり得ない。あり得たとしても、それは小説として間違っているだろう。

 別に小説のことが言いたいわけではなくて、要は「話し言葉」と「書き言葉」について考えていて、私たちは普段「書き言葉」で思考する。思考における言葉には言い間違いやどもりは存在せず、決して噛むということがない。だが「話し言葉」は違う。「書き言葉」に比べて「話し言葉」はかなり雑で不安定な言葉であり、しかしそれ故に多くの情報を含む。

 リエ・スクランブルが言う「文句があるなら来なさい」と、ブッシュ大統領が言う「文句があるなら来なさい」が同じ言葉だとは思えない。そこには多くの情報が詰まっているからである。ならば「話し言葉」は「書き言葉」にランダム性と情報を加えたものなのかというとそうでもない気がしていて、「話し言葉」とはつまり「声」そのものであり、つまらない言い方をするならば空気の振動でしかない。

「monkugaarunarakinasai」という耳に伝わる振動を私たちは「文句があるなら来なさい」と認識し、意味を読み取る。ただの空気の振動と「書き言葉」、つまり論理的な思考経路を同じ文字で表すことが可能である、という事実は単純にすごい。すごいが、別にだからどうということでもない。