つんく♂

あほらしものは何かな?
たとえば、たとえば---アッ!
3mもない道で
1日きらめく信号機

 メロン記念日「刹那さRanking」(「THE二枚目」収録)における三浦先生の歌詞であり、分かる、分かるのだがしかし、つんく♂がもし書いていたならばこの歌詞はもっと素晴らしい歌詞になったはずだという思いを捨てられない自分がいる。つんく♂の歌詞における素晴らしさとはすなわち論理の飛躍だ。完全に論理が飛躍していることを、圧倒的な自信満々ぶりで凌駕するというのがつんく♂歌詞の凄みである。

 それはもはや一般的なあるあるではない。つんく♂にしか理解できない、つんく♂つんく♂によるつんく♂のためのあるあるとなる。この歌詞を22、3の女性に歌わせるという行為も確かに常軌を逸してはいるがそれはあくまでも総合的な視点であって、つんく♂は歌詞単体で見ても頭がおかしいからこそ素晴らしいのだ。

 例えばこの信号機を見て「あほらし」と思うのは世間一般で理解できる思考の論理だ。しかしこれがもしもつんく♂であれば「こんな電気のムダ使いしてたら地球が危ない」あるいは「そんな信号機見てたらなんか知らないけど泣けてきた」とかそういった明らかな論理的飛躍を歌詞の世界に持ち込む。それが作為なのか天然なのかはつんく♂の脳解剖を待つほかないが、しかし少なくともメロン記念日において(あるいはミニモニ。などにおいてもだが)こういったつんく♂の力が有効にはたらいていたというのはまぎれも無い事実なのではないだろうか。

 いずれにしてもつんく♂という巨人について我々が語らなければならない事柄は大きい。だが一体どうすればあんな狂った関西人を理解することができるだろうか?

(例)つんく♂による歌詞の断片をつぎ合わせて新たな歌詞を作る(つんく♂バロウズ)という手法