メロン記念日in志賀高原

 志賀高原に行ったらメロン記念日のメンバーに(;´Д`)ハァハァさせられますた、などといういくつかの言及を読み延々落ち込んでいた。この『メロン記念日志賀高原問題』とは、こんなに辛い思いをするくらいなら行けば良かった、という次元の話ではない。あくまでも「体験すること」ならびに「体験を伝えること」についての話だろう。体験そのものに罪はない。知らない誰かが知らないところでメロンと素晴らしい時間をすごすという行為において共有されるものは時間と空間だけなのであって、神でない自分には全てのメロン記念日の時間および空間を共有することはできないのだから、当然その体験そのものは断罪すべきではない。
 むしろ断罪すべきは奴らがその「共有の事実」を他者に伝えるということだ。これは単純に、うらやましい、などといった問題ではない。奴らはその事実を他者に伝えることにより、柴ちゃんを、まさおを、村さんを、ひとみんを、自分だけのものに仕立て上げるのだ! 誰も知らないぼくだけの「メロン記念日」について君が知りたかったら教えてやるよ、とにやつきながらしたり顔で近づいてきやがるのだ!
 つまりは相沢にとってのメロン記念日が、奴らにいきなり強奪されたのだ! これは心理学の問題ではなく経済学や平等主義に関する問題なのだ! 少なくとも相沢はこの『メロン記念日志賀高原問題』において奴らの手によって奪い去られたメロン記念日を取り戻さなくてはならないと考えている。いかにして取り戻すか。妄想である。「おれ」が柴ちゃんの物語を作る。「おれ」は「おれ」だけの柴ちゃんを作るのだ。つまりはこういうことである。「志賀なら志賀とか意味がある。ほかにないような柴ちゃんを作ろう!」
http://blog.livedoor.jp/ieon/archives/2004-10.html#20041012
 心が洗われると同時に目からウロコが落ちる。感情の昂りによりあまりにも視野が狭くなっていた。
 いや、誰かの「体験を伝えること」が内容に関わらず「おれ」のメロン記念日を奪うという考えそのものは変わらない。しかし奪うという行為自体は悪いものではないのだ。それは新しい「おれ」の柴ちゃんを作るという希望に変わるのだから。問題は「(;´Д`)ハァハァ」などと言いながら他人が大切にしているものを奪うというその品性下劣なやり方こそであって、つまりこれは「素晴らしい体験をしたのであればそれなりの行動をしなさいよ!」という怒り、あるいは軽蔑だ。アイドル云々以前、人間としての道理である。
 何かとてつもなく大切な、人生にとって重大な何かを受け取ったのであれば(そしてどう考えても受け取ったはずなのだ! なぜなら相手は『あの』メロン記念日の4人なのだから!)、人としてまずすべきことがある。感謝だ。その形はどうだっていい、しかし、感謝の気持ちをまず心に抱いて、そしてまだ余力があるのならばその感謝の気持ちを日々の人生に活かし、また感謝の気持ちを抱いてライブに足を運びメロン記念日のために声を枯らす。それが「アイドル」と、いや少なくとも「メロン記念日」と「ファン」のあるべき関係性だと思うし、その関係性が許されるからこそ、メロン記念日をここまで愛することができるのではないのか?
 だからここで言おう、メロンと我々は常に一対一だ、少なくとも理想的には。メロン記念日が頑張ってくれるからこそ我々は負けじと日々を生きることが辛うじて出来るのだし、その日々の努力の価値はメロン記念日が保証してくれるだろう。そこが理想なのだ。だからメロン記念日を、ただのんべんだらりと愛すれば泣けるというわけではない。言わばその涙はそこで泣けるほど、真摯に、真剣に、自分なりの精一杯のやり方でメロン記念日を愛してきたのだという一つの証である。愛したからこそ泣くのではなく、泣くために愛しているわけではない。
 つまり我々には愛することしかできない。であるならばより良く愛そう、と思うのはただの世間知らずなのだろうか? しかし相沢には、それこそが愛するパワーであると思えて仕方ないのだ!