「KAMINOGE」vol.12 前田日明×青木真也対談 〜なぜぼく(とあなた)はこれほどまでに前田日明に魅かれてしまうのか〜

 「KAMINOGE」vol.12 Amazon

 「KAMINOGE」という雑誌が日本にはある。毎月一回、月末に発行されるこの雑誌は、プロレスラーや格闘家へのインタビューや対談によって、その多くのページが占められている。プロレスや格闘技に興味のない人なら、おそらく手に取ることはない雑誌ではある。しかし、ひとつのジャンル、ジャンルでなくても良いが、何かひとつの事柄を真剣に突き詰めて考え語るということは、最終的な帰結として、そのジャンルや事柄を超えた世界や世間の全ての事象を考え語るということに通じる。「考え語る」とはそういうことだ。自分の人生で培った全ての知識と力をもって、対象と闘うということだ。「KAMINOGE」というのはそういう雑誌である。それはぼくが知る限り、今日現在、宇宙で一番面白い雑誌でもある。

 そんな「KAMINOGE」の今号の巻頭を飾っているのが、前田日明氏と青木真也選手による対談記事。これがまた「KAMINOGE」史上に残るほどの、素晴らしい試合となっている。新日本プロレスを出自としながらいわゆる「総合格闘技」の生みの親の一人になった前田日明氏と、2000年代後半から2010年代前半までの日本格闘技をメインイベンターとして背負い現在はシンガポールの団体所属選手となっている青木真也選手。生まれ年で言うと24年も離れた両者は、これまで直接関わり合ったことはほとんどないが、メディアを通じた舌戦などにより、因縁浅からぬ二人である。誰もが観たいマッチメイクでありながら、そして同時に、誰もが不安になってしまうマッチメイクでもある。その試合は、「KAMINOGE」vol.12の誌面で行われた。

 ここまで読んで少しでも興味を持たれた方は、是非今すぐこのページを閉じて、「KAMINOGE」本誌をご一読ください。以下、ネタバレありの感想となります。

 とにかくもう、凄まじい緊張感が誌面から伝わってくる。編集者が思わず「水入り」を申し出てしまうほど、お互いに引かない二人。文字通りの「『対』談」である。表紙に記された「コトバのシュートマッチ」という惹句はまさしくその通りであり、「KAMINOGE」という雑誌がこの二人の対談に「シュート」という言葉を使うというのはかなりの覚悟があってのことだと推察するが(誤解を招きがちな言葉であるし、一歩間違えば「安っぽい」表現にもなりかねないから)、しかし「シュート」という言葉でしか表すことのできない切実さがここにはある。交わることのない両者は最後まで決して交わらず、そしてまた交わったふりをすることもなく、リングの対角線上でただ睨み合い、しかしそれはまた奇妙な合わせ鏡でもある。似ているようで、似ていない。似ていないようで、そっくりでもある。メビウスの輪の表と裏に、一人と一人の格闘家が立っている。孤高と孤高。理解し合えない父と子のようでさえある。

 しかし、何よりもこの対談で自分が感じ入ったのは、「前田日明」という生き方の、不自由さと、不具合さと、だからこそ生まれてしまう「色気」だ。これほどまでに、前田日明が、言葉にしないまでも本音と本質を語っている、あるいは滲み出てしまっている記事は、ちょっと記憶にないほどには新鮮であり、そしてその様は、どうしようもなく魅力的である。ああそうだ、前田日明というのはこういう人で、だからこそどうしようもなく魅かれてしまうのだった。現状に苛立ち、抗いながらも、その闘いを自分のものとして引き受けてしまう、生きるのが上手じゃない人。前田日明は確かにそういう人だった。だから好きなんだ、俺は、前田日明が。

 思えば、前田日明とは、「不自由の人」である。恵まれた体格がある。マスクも良い。日本の歴代プロレスラーの中でも未だに最強と評されるジャンボ鶴田から「前田日明と闘ってみたかった」と名指しで評価されるほどの、アスリートとしてのポテンシャルもあった。しかしその競技人生は、プロレスの神だか悪魔だかの悪戯によって大きく振り回され、結果として前田日明は、前田日明でしかなし得ない人生を生きることになった。望んだ道ではない。しかし前田日明は、その運命を背負うことを、常に自らに課して生きてきた。背負わされてきた、と言っても良いだろう。必ずしも当人が望んで選んだわけではないその道を、ナルシシズムとダンディズムだけをただ拠り所にして、前田日明はたった一人で歩いてきたのだった。

 UWFへの「異動」。競技者としての理想を求める佐山サトルとの確執。選手と経営者のあいだでの板挟み、そして第2次UWFの分裂。日本人選手が自分一人しかいないリングスの立ち上げ。ヒザのケガをごまかしながらの、団体エースとしての試合出場。全て、前田日明が望んでやったことではない。ひとりの競技者として考えたら、もっとあり得る、あってしかるべき道はあったかもしれない。しかし前田日明は、運命を背負うのだ。なぜなら、そういう人だから。「選ばれし者の恍惚と不安」という、受動態の主語による言葉をもって旗揚げした第二次UWFは、分裂したときでも中島らもから「君には挫折する資格がない」なんてFAXで激励されてしまう。知らないふりも出来ただろう。前田日明をやめてしまう、あきらめてしまう機会なんて、何度だってあったはずだ。しかし彼は、ぼくが知る限り、そんなうまい生き方を一度も選んだことはない。

 前田日明という人間は、そのようにして、生きてきた。小文字の「前田明」が望むこと、やりたいことは全て二の次にして、大文字の「前田日明」であることを自らに課した(唯一「前田明」の希望が叶えられたのは、引退試合のカレリン戦くらいだろう。だからこそその試合は、実現したこと自体がファンの無上の喜びとなったわけだが、それを語り始めるといくつもの夜が明けてしまうから今日のところはやめておく)。自らの意思とは関係なく、運命が、彼の背負うべきものを常に求めた。そして前田日明は、背負うべきものを、背負って生き続けてきた。今も、そうだ。前田日明は、今日でもなお、「前田日明」であることを、自らに課し、それを求め続けて生きている。

 前田日明とは、古風な男である。シャイであり、強がりもする。それを美学として捉えているフシもある。だから本音や愚痴などは口に出すことはない。青木真也との対談においても、自らが築いてきた前田日明像を崩すような発言なんてものは一切することはないが、しかし口には出さずとも、この対談においての行間と苛立ちの様子からは、明らかに本音が滲み出ている。ジャンルを背負うことについて、前田は苛立ちながらも青木に問い、それを求めている。その切実さは、読んでいて胸が痛くなるほどでもある。「俺は、やってきた。だったらお前もやれるやろ!」と、言葉にしてはいないながらも、その想いは、あからさまに行間から滲み出てしまっている。そんなことは前田日明は絶対に口を出すことはないのだが、しかしこの「シュートマッチ」は、明らかに前田日明を追いつめている。そこで滲み出る前田日明の本音と本質は、どうしようもなく魅力的である。

 なぜ私たちは、これほどまでに前田日明に魅かれてしまうのだろう? その答えの一つが、ここで明らかになっている。彼は背負って、生きているからだ。才能や能力や意志を二の次にして、運命に寄り添って生きることを、前田日明は決めてしまっている。やりたいことをやっているのではない。やらなくてはいけないことしか、前田日明は、やっていない。だから魅力的なのだ。その不自由さは、社会に揉まれて生きる自分(君もそうだろう?)と、どうしたって響き合う。才能や能力なんてものは二の次三の次として、いま、自分がやらなければいけないことは、自分がやらなくちゃいけないのだ(君がそうであるように!)。

 前田日明は、現実に生きる。運命を背負って生きている。だからこそ、あの人は、無茶苦茶に魅力的なのだ。

 前田日明青木真也の対談は、終焉に向かい、母の話を迎える。前田日明の、パパとしての母への実感も、非常に趣がある。これは、2012年の前田日明が、新しい前田日明像を築いていく、その最初の証左となるだろう。前田日明は、母となった妻を評して、こう述べる。

 なんかもう、人の一番痛いとこついてくるだろ? 「え、なんでそういうこと言うの? それを言ったら俺のとどめを刺すような言っちゃいけないことなのに、なんで言うの?」みたいなこと、おまえも言われるだろ?

 これはまさに、2012年の年末に生まれた、新しい前田節である。なんてキュートなことであろうか。これほどまでにピュアな前田語録は、間違いなく、歴史上存在していない。「母は強い」なんてことを、前田日明が言うだなんて! これでまた「前田日明」は、自らによって更新されるのだろう。「前田日明」は、変わり続け、それでも変わらない「前田日明」でい続けるのだ。素晴らしいにも程がある。こんなに素敵な人と同時代で生きていられてるなんて、こんなにありがたいことはそうそうないぜって、俺は本当にそう思っているんだ。まったくもう、まいってしまうよな、実際!

 そして対談も終わりを迎えたころ、青木真也選手に対して自ら口火を切る形で飯に行こうと誘うアキラ兄さんの姿もまたべらぼうに素敵だったりして、まあ世の中生きてりゃ色々ありますけど、俺は前田日明の現在進行形を目にすることができている。だからたぶん、ぼくの人生はおおむね最高だったよって、閻魔様にはお伝えできるんじゃねえか。なんつってな。