HARASHIMAという男 〜プロレスファンではない人々に向けての人生論〜

 2010年11月15日、DDTプロレスリング興行、大阪府立体育館第二競技場。

<挑戦者>○佐藤光留(21分27秒、TKO勝ち)HARASHIMA●<王者>
※腕ひしぎ十字固め→レフェリーストップ。HARASHIMAが3度目の防衛に失敗、光留が第33代王者となる
(週プロモバイルより試合結果引用)

 プロレスファンではない人々にはあまり知られていないことだが、プロレスには、ベルトという概念が存在する。ベルトとはすなわち「この団体でいま現在一番強いのはお前」という事実を象徴するアイコンである。プロレスラーというのは基本的に我が強く社会性に欠ける人種なので、野放しにしておくと好き勝手にプロレスをやり出すし、俺は強いのだいや俺のほうが強いのだいや俺はお前よりももっと強いのだ強いのだ、と言い出して収拾がつかない。だからプロレス団体はそんなプロレスラーたちのために「これ持ってる奴が一番強いってことにするから各所よろしく」という大人な対応として、ベルトという象徴を用意する。そしてその象徴を手にしている者だけが、チャンピオンと呼ばれる権利を与えられる。

 プロレスファンではない人々にはあまり知られていないことだが、プロレスには、エースという概念が存在する。エースとはすなわち「この団体の顔はお前だから各所よろしく」という団体からの命を担った者に課せられる呼び名である。これはチャンピオンと同義ではない。何故ならベルトを賭けた勝負とは常にその場そのときで一度きり行われるものだから、チャンピオンというのはあくまでも、ベルトを賭けたタイトルマッチが終了したこの瞬間には少なくともお前は前チャンピオンより強かった、ということを保証するものでしかない。これはかなり水モノの概念である。前チャンピオン以外と戦ってどんな結果になるかは一切保証されていないし、タイトルマッチというものは様々な要素に左右されすぎる。だから団体とファンは、エースという概念を用意する。ベルトを持っていないとしても、エースはエースだ。この人がうちんとこの大将です、と団体とファンが覚悟を持って表明できる存在が、エースである。

 チャンピオンとエースは同義ではない。だが当然、チャンピオンという概念とエースという概念が同一人物に課せられる場面は往々にして存在する。HARASHIMAというレスラーは、ここしばらくそういった存在にあった。何しろ華がある。そして良い意味で空っぽだ。空っぽだってことは、誰もが自分自身を彼に投影できるってことでもある。なおかつ他団体に流出したベルトを取り返してくれた。どうしたって非の打ち所のないエースだ。そして他団体に流出したベルトを、信じ難い説得力をもって取り返し、それを保持し続けることでチャンピオンでいてくれた。我々のエースは、あらゆる苦難をはねのけて、チャンピオンで居続けてくれたのだ。

 今日、大阪府立体育館、第二競技場で行われたメインイベント。そんなHARASHIMAに、佐藤光留という選手が挑戦した。プロレスファンではない人々に細かいことを言っても難しくなるばかりなので、ざっくりはしょると、佐藤光留っていう選手は素晴らしいプロレスラーで、自分だけの歴史を背負っていて、ファンの気持ちもその胸に抱えてくれていた。団体の所属ではないけど団体のイズムを象徴していたし、これからの未来を感じさせる存在でもある。そんな彼が、ベルトに挑戦する。プロレスとは大河ドラマだ。主役は人である。だからこそ、その挑戦者は、その日会場にいた大多数の気持ちを背中に抱えて戦うことになった。

 そしてその試合は行われた。プロレスファンではない人々にはあまり知られていないことだが、ベルトを賭けたタイトルマッチでは、原則として挑戦者が先に入場する。また、プロレスファンではない人々にはあまり知られていないことだが、プロレスには試合前に挑戦者及びチャンピオンの名前がコールされた際に観客から紙テープが投げ込まれるという儀式が存在する。投げ込まれる紙テープの量は、一般的に選手の人気に比例する。その日、その挑戦者には、会場に集まった数多くの観客から、リングに溢れんばかりの紙テープが投げ込まれた。リング上は、彼を象徴するカラーの紙テープで染まった。そして、チャンピオンが入場した。そのチャンピオンには、その日会場にいた誰からも、紙テープは投げ込まれなかった。ただの一つも、紙テープは投げ込まれなかったのだった。

 HARASHIMAは、エースでありチャンピオンである。だから、勝って当たり前だ。本来負けてはいけない存在なのだ。だから紙テープも飛ばない。声援も送られない。自分がいた席の後ろから「HARASHIMAは人気がないチャンピオンなんだよ」って声が聞こえた。確かにそれは事実かもしれないけど、真実ではない。エースでありチャンピオンであるHARASHIMAに対して、紙テープを投げたり、声援を送ること自体が失礼な行為なんだと、ぼくはそう思っている。だって今まで、抱えすぎるほどのものを抱えてくれたんだから。関本からベルト取り返してくれたんだぜ? そんなん一生頭上がらないし、そんな圧倒的な人に対して、頑張れ、なんて口が裂けても言えないだろ? だって、どんだけ頑張ってくれたんだよ、HARASHIMAが、今この瞬間に至るまで。そんな人に対して、頑張れ、なんて言えないだろ。もう充分頑張ってくれてんだから。

 エースは孤独だ。団体の顔である以上、団体の強さを背負う。その上でチャンピオンだから、下からの挑戦も受ける。だとすれば、エースであるという理由を根拠にして、下からの強さを最大限引き出して勝つことが要求される。HARASHIMAはベルトに挑戦してきた佐々木大輔に対しても、男色ディーノに対しても、強さという面において自分を抑えた。あえて彼は抑え込んだ。それは、自分が強すぎるからだ。強さという意味において圧倒的な差がある相手に対して、相手の引き出しを目一杯出させた上で、しかも勝つ。エースであり同時にチャンピオンであるということは、それが義務でもある。所属する団体の長である高木三四郎は「自分でリミットを作るな」と言う。その言葉の代表が、佐藤光留かもしれない。でもHARASHIMAは、エースであり同時にチャンピオンでもあるから、そして強すぎるから、自分自身でリミットを設定せざるを得ない。相手に合わせて、試合を作る。そのプロフェッショナルイズムは、あまりにもかっこよすぎて、筆舌に尽くしがたい。負けるときにしか、自分の本来の全力を出せないんだから。1年目の両国。今日の大阪。ベルトを譲るときにしか出せない実力を、常にHARASHIMAは鍛えている。その実力を発揮するのが、いつになるかも分からないのに。

 HARASHIMAの大抵の試合は、確かにしょっぱい。うだうだやってて最後に蒼魔刀で、マイクで「鍛えてるからだー」で終わる。でも、その是非は、エースである者以外は問うべきじゃない。試合後のコメントで新チャンピオンになった佐藤光留は「飯伏さんとHARASHIMAさんは何かしたくてもできないジレンマみたいなものを感じました」と言ったらしいが、エースってのはそういうものだ。ジレンマとともに生きることを選んだ者。それがエースだ。そんな生き方を、誰が否定できるんだろう? プロレスが人生の代弁者だとするならば、誰がHARASHIMAを否定することができる? 「夢」って言葉に酔って生きるよりもよっぽどリアルだ。ピープルズチャンピオンは人気投票で決まるわけじゃない。佐藤光留選手を否定するわけじゃないけど、今日のHARASHIMAにこそ、人生の縮図は投影されているんじゃないのか。忸怩たる思い、納得できない感情を、HARASHIMAのように抱えて生きてるんだから、そこに何も感じないなんてやっぱり嘘だ。幸せになるために産まれたんならもっと早めに妥協してる、でもそうじゃないから、こんなに毎日苦しいんじゃないのか?

 仲間たちとファンに愛されてベルトを腰に巻く姿は、絵になるかもしれない。でも、絵にならない人間の姿や、理解されにくくて言葉じゃ説明しにくい何者かを表現するのがプロレスなんだとしたら、今日のHARASHIMAこそがぼくの愛するプロレスだった。盟友である大鷲さんが、去り行く前にエプロンサイドを両の手のひらで叩いた音が、ぼくの愛するプロレスの全てだ。だからプロレスは美しい。勝ち負けじゃない。プロレスとは、どうやってカッコ良く生きるか、その問いに対する大いなる実践なのだから。

 佐藤光留は、確かに素晴らしかった。でも、それ以上に、っていうと語弊があるから、少なくともそれと同じぐらいには、HARASHIMAは素晴らしかった。そのことだけを言うために、長々と書き連ねた。140字では言い尽くせないものが、プロレスにはあるから。

 ベルトを失ったとしても、ぼくにとってのエースは、まだHARASHIMAだ。「新しいDDT」にふさわしいかどうかは知らない。それでもやっぱりHARASHIMAから貰ったものは、とても大きくて、それを捨てるぐらいなら死んだほうがマシだって言えないと、生きてる意味はないんだと真剣に思っている。